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奈良のシカの歴史
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奈良のシカの歴史

歴 史

 古来からシカと日本人との関わりは、各時代の土器や青銅器、埴輪、工芸品など、さまざまな装具や美術品からうかがえます。狩猟の対象とされ、食糧や衣類などに利用するため、乱獲された時代もありました。

 「奈良のシカ」に関わる記述は、 万葉集(750)などに見出すことができます。
 「春日野に粟蒔けりせば鹿待ちに継ぎて行かましを社し恨めし」(佐伯宿禰赤麻呂)から春日野周辺ではすでに聖地狩猟の対象とされていたようです。 「高円の秋野のうへの朝霧に妻呼ぶ牡鹿出で立つらむか」(大伴家持)などの歌から、古来より春日野周辺には野生のニホンジカが生息していたと思われます。

768.11.9(神護景雲2年)
 春日大社の社伝によれば、称徳天皇の頃、平城京鎮護のため、鹿島神宮(茨城県)の武甕槌命を祭神に勧請した時、白鹿の背に乗御蓋山に奉遷されたという伝説により、奈良のシカを神鹿(しんろく)として神聖視し、保護敬愛された。

770(宝亀1年5月11日)
 伊予国、白鹿を奉献(日本記略)
 
 
792(延暦11年11月)
 伊予国、白鹿を奉献(日本記略)
 
 
856(斉衡3年12月28日)
 美作国より白鹿を奉献。神泉苑に放つ(文徳実録)
 
 

868(貞観10年11月28日)
 太宰府、白鹿を奉献(日本記略)

876(貞観18年3月3日)
 備後の国、白鹿を奉献(日本記略)
 
905(延喜5年)
 古今和歌集巻四「奥山にもみじふみわけなく鹿の声きくときぞ秋はかなしき」(猿丸太夫)
917(延喜17年11月26日)
 備後の国、白鹿を奉献(日本記略)

948(天暦2年2月5日)
 常陸国府より鹿7頭来る(貞信公記)

 

1006.1.16(寛弘3年)
 藤原行成の日記「権記」に春日社参の折り、参道でシカに会い、これぞ神のお使いと車を降りて土下座してシカを拝した。と記す神鹿信仰を示す最古の記述がある。

1112.6.17(天永3年)
 右大臣中御門宗忠が春日社参の折り、塔建立の候補地を探すうち、四、五十頭のシカが現われ、随喜した。これからも神鹿思想が強かったことがうかがえる。

1148.9.25(久安4年) 
 左大臣藤原頼長の台記に「今夜夢見鹿、余頼長、以為吉祥、又春日加護也」とある。 シカは春日大明神の使わしめ、春日の神慮はシカによって窺われる。という信仰がこの頃すでにできていたと思われる。

1309.(延慶2年)
 西園寺公衡が「春日権現記絵」を春日社に奉納、シカの姿が多く描かれている。中世になると藤原氏に代わり、興福寺が神鹿保護の強力な後立てとる。藤原氏と同様にその権力を民衆に誇示する政治的な意味があった。 神鹿保護の掟は厳しく、シカを殺した者は、断頭や釜茹での処刑に処せられた。

春日権現験記

 鎌倉時代延慶2年(1,309年)、西園寺公衡を願主とする藤原一門が文を起こし、当時高名の高階隆兼が絵に現した。
 春日の神の霊験物語を60近く集め、絵と文章でつづった20巻に及ぶ絵巻である。

〔第12巻〕
 東大寺東南院の恵珍は、毎日春日へのお参りを欠かさなかった。その恵珍はある日夢に、一の鳥居を入って東に向かう牛車を見る。牛車の後ろには、神人の一団と沢山の鹿の群れ、車の窓からは地蔵菩薩のお顔を拝したという。地蔵菩薩とは、春日第三殿、天児屋根命の本地仏である。
 絵に描かれた一の鳥居の位置は今も変わらず、牛車の上に見える影向の松も現存する。

〔第18巻〕 神鹿
 明恵上人は春日大社に参詣するため、紀州から宿所の東大寺尊勝院へ向かう途中、中御門付近で約30頭の鹿に出会った。鹿は膝を折って一様に伏したという。
 王朝の昔から春日へお参りする途中、鹿に出会えることは最も吉兆とされ、中にはわざわざ乗り物から降りて、鹿を拝んだ藤原の貴族もいたという。鹿は神のお使いだからである 。

〔第16巻〕
 笠置山の解脱上人は熱心な春日の篤信家であった。
 鎌倉時代の初め、建久7年(1,197年)の秋、春日の神を笠置寺の鎮守に迎えるべく春日の社の詣で、榊の枝にお写しした神様を笠置山におまつりした。その時、新しく造られたお社の後に大きな2頭の雄鹿が現れたという。
 春日の神は鹿島から鹿に乗って奈良に来られたと伝えられる。したがって鹿がそこに現れたということは、そこに春日の神がおいでになったことを意味する。

 

1473.5.20(文明5年)
 神鹿殺害人三名を死刑に処す。

1580.10.15(天正5年)
 織田信長、シカ殺し密告者に二百貫の賞金を与え、犯人を処刑。

1591(天正15年)
 「多聞日記」では、神鹿を殺して立ち去る者を斬殺し、賞讃せられた。

1671(寛文11年) 
 江戸幕府は奈良奉行溝口豊前守に命じて、春日神鹿の保護にあたっていた興福寺に角きりを申し渡し、興福寺の衆徒が70数頭のオスジカの角をきり、以後奈良奉行の監督下、毎年行われる。

1674(寛文14年)
 シカを殺した男が興福寺の衆徒に捕らえられ処刑された。 明治維新後、興福寺が廃仏毀釈で廃寺化され、神鹿の保護は衰退すると、シカへの反動的な迫害と新政府の無関心でシカの頭数が激減 する。

1694(元禄7年)
 松尾芭蕉の大和吟行「びぃと啼く 尻声悲し 夜の鹿」

 

(鹿苑入口付近))

1871.11(明治4年)
 県令四条隆平は、シカを有害獣として銃による射殺を許可。

1873.4(明治6年)
 県令四条隆平は市民有志に「鹿園」を建設を許可し、700頭以上のシカを追い込み、入らないシカはその場で銃殺した。 また、給餌料が少ない上に、疫病発生と野犬の襲撃などで生存数がわずか38頭になり[鹿園」から解放し絶滅を免れた。 その後、春日神社から神鹿保護申請もあり、明治23年に奈良県令でシカの殺傷禁止区域が設定される。

 明治24年有志により「春日神鹿保護会」が設立され、シカの保護を引継ぐ。

 明治25年に木柵の鹿園(現在は「鹿苑」)をつくり、野犬に襲われないように夜間だけシカを収容するなど、保護育成に努めた。

 その後、第二次世界大戦の戦中、戦後に餌の欠乏や人による殺傷により、その数が80頭にも満たない絶滅寸前の危機に陥る。

 頭数の激減により、昭和22年「奈良の鹿愛護会」と改称し、奈良県、奈良市、春日大社の援助のもとに保護育成に努めた結果、ほぼ戦前の頭数に回復。

 昭和32年9月 「奈良のシカ」は、その歴史的価値と、野生動物でありながら自然馴化した特有の生態による学術価値によって、文化財保護法第69条第1項の規定により「天然記念物」に指定され る。

 天然記念物「奈良のシカ」の特質は、野生動物でありながら人によく馴れていることである。これは、古来より神鹿信仰によって保護されてきたこと。また、その時々の公権によって保護されてきたことであり、永い歴史の中で人とシカの信頼関係から生まれた結果である。
 春日山原生林から奈良公園一帯に棲息する「奈良のシカ」は、都市近郊で人と共存している世界にも類例のない非常に貴重な存在である。

 

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Copyright (C) 2002 財団法人 奈良の鹿愛護会
最終更新日 : 2008/08/15